あの日、病棟で仕事をしているときに、かすかな揺れを感じました。しばらくして、患者さんから「東北でえらいことになってるで!」と、恐ろしい津波が映し出されたTVを見せられました。

横浜 124当時勤務していた病院からも、医療救護班が宮城県石巻市に派遣されました。私も志願しました。第3期の派遣で、震災から2か月近く経っていたので交通網は少し整備されていましたが、移動の車の中から見える景色はただひたすらに瓦礫ばかり・・・。

避難所となっている小学校の1室での診療業務。通常の診療とは違い、すべてのことを限られた支援物資の中で行わなければいけません。熱発・腹痛・・・病院ではすぐに採血やレントゲンなどの検査ができますが、ここでは医師の触診・視診だけが頼り。他はインフルエンザの簡易検査ぐらい・・・。本部になっている石巻日赤病院までは車で1時間以上かかります。すぐに搬送するか、様子を見てもいいものか・・・。その方は、救護班の車で搬送することになりました。また、このころになるとお年寄りなどは徐々に体調を崩す方がほとんどです。

食事は、朝はパン等、昼・夕は自衛隊の炊き出しがありました。救護班の食事は、自分たちで準備することになっていましたが、ある日『現状を知る意味でも、一度炊き出しを食べてください』と、御馳走になる機会がありました。栄養のバランスが考えられていて、一言でいうと肉体労働者向きの食事です。全体的に濃い味付けで、お年寄りには塩分のとり過ぎが心配されました。実際、救護室に来る方の多くが血圧が高く、内服を調整している状態でした。

3.11の日を迎えるたびに、あの石巻での1週間を思い返します。いまだ多くの方が仮設住宅で暮らし復興が進んでいないと、メディアで見るたびに、私にできることはないのかな・・・と考えます。

横浜 168 横浜 202

左:日和山、津波で消えてしまった町  右:女川の高台、ビルの上に車が・・・

byケアドライバー 看護師M